由緒

はじまり

延元のはじめ、南北朝時代のこと。南朝方についた阿蘇の大宮司・阿蘇惟直と義弟の恵良惟澄たちは、多々良が浜(現福岡市東区)にて大敗。

当時の阿蘇神社大宮司阿蘇惟直は義弟の恵良に大太刀を託して自刃します。

惟澄は辿り辿って杣の里より矢部川を下り、川のほとりでこんこんと深い眠りに落ちていました。

傍らには鋸のように欠けた刃。

そこへ無数の蛍がやってきて強い光を明滅させます。

翌朝、惟澄が目を覚ますと太刀は元の如く青白い光を放つ、こぼれの全くない銘刀にかえっていました。(*国宝 蛍丸伝説は、諸説あります)

早鷹宮

近くの宮園城の城主・大木貞久は、惟澄の傷が癒えるまで城内に留まらせます。

貞久の「貴方の郷、阿蘇の大明神を分霊して、ここ海津古川の丘陵に祀られよ」との勧めもあり、惟澄は海津古川の地に阿蘇の神様を奉祀します。

早鷹宮、これが筑後乃国阿蘇神社の前身です。

御鎮座

時代は移り、筑後国は立花藩の支配を受けるようになります。

宗茂公と共に朝鮮の役に出兵する際に必勝祈願をした家老・小野和泉守鎮幸(日本槍柱七本の一人)はめでたく凱旋され、早鷹宮(阿蘇神社)に御礼言上参拝されました(海津郷土史より) 。

この小野和泉守の命により社殿並びに神田が寄進され、元和八年(1622年)、現在の場所に早鷹宮より阿蘇神社として分霊、新築されました。

またその後も小野和泉守・小野若狭守、そして代々海津の氏子の方々より神殿再建、楼門再建に多大なる尽力をいただきました。

初代宮司の恵良惟澄より、大木貞久、小野和泉守、海津の氏子の方々を始め、多くの方々のお陰で共に長い間守り、守られてきた筑後乃国阿蘇神社。

令和四年(2022年)には移転400年、そして 令和十九年(2037年)には創建700年を迎えます。